「頑張れば出来るけれど、もう頑張りたくない」
そんな境界線に立たされたことはありませんか? 物理的に可能かどうかではなく、自分の心が、これ以上の自分を削ることを拒否してしまう瞬間。
仕事を休むと自由な時間が手に入るはずなのに、なぜか胸の奥がチクチクと痛む。 もしそう感じるなら、あなたは私と同じように、長年「責任感」という名の重い荷物を背負い続けてきた人なのだと思います。
今朝の私は、まさにその場所に立っていました。
「無理をすれば行ける」という選択肢の重み

外は、雪。
起きた時から、頭の中ではシミュレーションが走っています。
準備を急ぎ、交通機関の乱れを計算し、時間がかかっても最適ルート選べば、仕事には行ける。
行こうと思えば、行ける。 けれど、その「無理」を重ねた先に何があるのか。
私は迷った末に、会社に連絡をしました。
電話を切ったあとに残ったのは、得も言われぬモヤモヤとした重苦しさです。 「周りは普通に出勤しているはずなのに」「これくらいで休んでいいのか」 そんな正論が、自分を甘やかしているのではないかと私を責めてくるのです。
自分を大切にするために「高コスト」な道を選ぶ
ふと、以前自分が綴った「自分を大切にするコスト」の話を思い出しました。
摩擦を避けるために自分の本音を飲み込むのは、脳にとって「低コスト(省エネ)」な選択です。 波風を立てず、役割を全うし、期待に応え続けていれば、誰にも文句は言われません。 けれどその代償に支払うのは、自分の体調や、静かに悲鳴を上げている心です。
逆に、この状況で「休む」という意思を示すことは、今の私にとって非常に「高コスト」な行為でした。 周囲の反応を想像し、罪悪感と向き合い、自分の中の評価が揺らぐリスクを引き受ける。
それでも今回、私はあえてその高いコストを支払う道を選びました。
「居なくてもいい自分」を受け入れる勇気
それは、「居なくてもいい自分」を確認したかったからかもしれません。
「自分がいないと回らない」「穴を開けてはいけない」というプレッシャーで自分を縛り、役割の中に閉じこもるのを、もう終わりにしたかった。
私が居なくても、世界は滞りなく回っていくはず。そうであって欲しい。
その事実に傷つくのではなく、むしろ安堵したかったのだと思います。 「役割」から降りて、ただの自分に戻るための、小さな実験です。
幸い、私の周りには「無理をしないでいい」と言ってくれる人もいます。 世間の正解とは少しズレていたとしても、今はその優しさを自分の指針にしようと思いました。
モヤモヤの正体は、これまで誠実に生きてきた証拠
「あなたは楽でいいよね」 そう言われることもあるかもしれません。 けれど、こうして立ち止まっただけでこれほどまでに心が揺れるのは、それだけこれまで「責任」というものを重く、大切に扱ってきた証拠です。
決して、のほほんと楽に生きてきたわけではない。 その重荷を下ろした瞬間のこの違和感こそが、自分の歩んできた道のりの誠実さを物語っています。
いい方に考えましょう。 無理をして事故を起こしたり、効率の悪い中で無理を重ねるより、思い切って余白を作る。 それもまた、一つの立派な危機管理であり、役割への向き合い方です。
モヤモヤは、そのまま抱えていていい。
明日からまた頑張ればいい。

いつかきっと、自分を守る選択ができた日だと、思える日がくると思いたいです。


