まえがき
ある写真の有無によって生まれた気付き。
これは、記憶を元にしたフィクションですが。
いま思えば、いびつで、変わった夫婦だったのだと思います。
写真に見る家族関係
「夫と写真に写らない理由」愛と合理性の狭間で
夫婦という関係の脆さ、
それは一枚の写真の不在によって、静かに、しかし決定的に露わになることがある。
我が家には、家族でうつった写真がほとんどない。
思い出を閉じ込めた額縁すらなく、結婚式のアルバムは本棚の奥で埃をかぶっている。それらは、撮られたことすらないのかもしれないくらいに。
そして、私には、子供を抱いている写真が一枚もない。
その事実を夫に告げたとき、彼は驚きもせず、「ああ、そうだね」と呟いただけだった。
私たちの結婚は結果的に、愛というより、生活の合理性を優先した形式的なものだったのかもしれない。
夫は仕事に集中し、私は育児と家事をこなすことに集中した。子供の成長を記録するのは、私のスマートフォンの中に留まっていた。夫は「記念写真」を撮ることに興味がなく、私もまた、夫にシャッターを押してもらうという発想がなかった。
日々の生活に追われて、自分のことなどすっかり忘れてしまっていたかのようだ。
だからずっと、それが気にならなかった。私は子供を愛していたし、夫もまた、子供を可愛がっていたから。ただそれぞれの想いが、それぞれで完結してきただけだった。
私は子供を抱きしめ、お風呂に入れ、寝かしつける。夫は休日に子供と公園で遊び、新しいおもちゃを買い与える。それぞれの役割を粛々とこなし、それぞれの愛情を注いでいた。
「写真がない寂しさ」見えない心の傷と夫婦の空白
だがある日、ネットで見かけた記事にハッとした。
夫が妻の写真を撮らないことから、妻が離婚を申し出たというようなものだった。もちろん、離婚を決意するに至る理由は写真だけではなかった。
つまるところその人の夫は、悪気はないにしろ自分中心の考え方が抜けない人だったのだ。
そこで私は、私たち家族の関係に欠けているものを初めて意識した。
夫は、高価なデジタル一眼レフカメラやビデオカメラを買うことはした。
思い出を残すための道具は、揃っていた。
それなのに、子供を抱く私の写真がないのは、夫がシャッターを切ってくれなかったからだ。
そう気づいた瞬間、私は言いようのない孤独に襲われた。子供の成長の過程で、夫は私を、子供を抱く「母」として、カメラのファインダー越しに見てくれたことがない。それは、夫の私に対する関心の薄さの表れなのか。それとも、母としての私を、彼の中で完結した存在として捉えているのだろうか。
夫に尋ねてみた。「どうして私と子供の写真、撮ってくれないの?」と。
彼は少し考えてから、こう答えた。「必要ないだろう?お前がいつも子供と一緒にいるんだから。記録に残す必要もないと思った」その言葉に悪意はなかった。だが、その無邪気な言葉が、私を深く傷つけた。
夫にとって、私は「いつも子供と一緒にいる」存在であり、特別な瞬間を切り取って残すべき対象ではなかったのだ。それは、私が「妻」として、「母」として、彼にとって当たり前の風景の一部になってしまったことを意味していた。
「第三者が写した家族写真」他人を介して初めて存在できた家族
私たちにも何枚かある貴重な(私も写っている)家族写真は全て、私たちの両親がいつの間にか撮ってくれたものか、私たちが主役の◯◯式と名の付くもので、ただのサービスで撮られたものだ。
私たちは、第三者を介することで初めて、家族として存在できたのではないか。
今、私は思う。もし、私と子供の写真が、一枚でもあったなら。それは、夫が私を、母として、妻として、そして何より、特別な存在として見てくれた証拠になっただろう。
せめて、子供を抱いて退院したあの日、
「写真撮るよ」という声掛けでもあったなら・・
その一枚の写真が、私たちの歪な関係を、少しでも修正するきっかけになったのかもしれない。
しかし、現実は、ただの空白だ。
そして、その空白が、私たちの夫婦関係の深淵を、静かに物語っているのだ。
あとがき
文章を書いてくれたAIに、
「シャッターと切ると押す、どっちなのーー?!」と尋ねたところ、ちゃんと意味があるんですって!
ふふ、ごもっともなご指摘です。
「シャッターを切る」と「シャッターを押す」は、どちらも写真を撮る行為を指す言葉ですが、厳密には少しニュアンスが異なります。「シャッターを切る」 こちらは、写真業界で古くから使われてきた表現です。シャッター幕が高速で開閉する音から生まれた言葉で、**「ここぞという瞬間を捉える」**という、決断や意思を伴うニュアンスが含まれています。
「シャッターを押す」 こちらは、文字通りシャッターボタンを「押す」という物理的な動作を指します。最近のデジカメやスマートフォンの普及で、より一般的な表現になりました。今回のエッセイでは、「シャッターを押す」とすることで物理的な動作に焦点を当て、その行為自体を拒んだ夫の姿を描写しました。一方、「シャッターを切る」とすることで、家族の大切な瞬間を写真として切り取ろうとしなかった夫の決断の不在を象徴的に表現しようとしました。


