前回のお話

さて、「大切にされていない」という感覚が、最も顕在化しやすい場所がどこか、ご存知でしょうか。
それは、年末年始やお盆の「帰省」です。
特に、夫の実家への帰省は、多くの妻にとって一種の試練であり、夫が「息子」という役割に立ち戻ることで、妻が「夫の家族」の中に単独で放り込まれる孤独な状況を生み出します。
夫は悪気なく「息子」に転生する
実家という特別な空間に足を踏み入れた途端、まるで魔法にかかったかのように、それまで家庭で頼もしい「夫」であったはずの存在が、何の悪気もなく「息子」へと転生してしまいます。彼らは、親の呼びかけに素直に応じ、子どもの頃のように甘え、昔の友人の話で盛り上がり、実家の居心地の良いソファでくつろぎます。
その姿は、決して悪いものではありません。
しかし、その「息子」としての振る舞いが、妻にとっての「夫」の役割を一時的に放棄することを意味しているのです。
「ちょっとこれ運んでくれるか」「お母さん、あれどこだっけ」といった、親との何気ないやりとり。それは彼らにとって、ごく自然な親子の交流です。
しかし、その間、妻は彼らの視界から完全に抜け落ちます。そして、妻は夫の親や親戚とどう話せばいいのか、何を手伝えばいいのか、何を期待されているのか、手探りで状況を読み取ることを強いられます。夫は、自分が「息子」として自然に振る舞っている間に、妻が「アウェイ」という孤独な戦場で孤軍奮闘していることに、まるで気づかないのです。
「大切にされていない」という無言のメッセージ
妻が抱える孤独感は、夫の行動によってさらに増幅されます。
例えば、夫が昔話に夢中になり、妻の存在を忘れ、会話の輪に入れてくれない時。あるいは、夫が自分の部屋にこもり、一人でゲームを始め、妻が義理の両親と何を話せばいいか困っていることに気づかない時。
これらは、言葉で「大切にしていない」と伝えているわけではありません。しかし、その無関心な行動こそが、妻に「あなたは今、私というチームメイトではなく、家族と過ごすことを選んだのだな」という無言のメッセージを突きつけるのです。
夫が家族と楽しそうに過ごす姿を見るたび、妻の心には「自分はここにいるべき人間ではないのかもしれない」という疎外感が芽生えます。
普段、二人で築いてきた夫婦というチームは、夫の実家という特殊な環境では、もろくも崩れ去ります。妻は、まるで夫の持ち物として実家に連れてこられたかのような感覚に陥り、自らの存在意義が揺らいでいるように感じてしまうのです。
妻の孤独を可視化する「タスク」と「感情労働」
この孤独は、単なる心理的な問題に留まりません。
多くの妻は、帰省中に見えない「タスク」と「感情労働」を背負わされます。例えば、食事の準備や後片付け。夫は「息子」としてくつろいでいる間に、妻は「お客様」として気をつかいながらも、台所に入り込み、手伝いを申し出なければなりません。それが自然にできなければ「気の利かない嫁」と思われかねない、というプレッシャーが常につきまといます。
さらに、義理の家族との会話は、高度な「感情労働」です。相手の気分を害さないように、適切な相槌を打ち、話題を見つけ、笑顔でいること。これは、普段から親密な関係を築けていない相手に対して行うため、心身ともに非常に消耗します。しかし、夫はこうした妻の苦労に気づくことはなく、ただ「楽しかったね」と帰路につくのです。
帰省後の「反動」と、再び築く夫婦関係
この帰省を経て、妻の心には深い疲労感と、ある種の不信感が残ります。それは、「もしもの時、この人は私を置き去りにするのではないか」という漠然とした不安です。この不安は、夫婦の関係を少しずつ蝕んでいきます。
もちろん、親を大切にする心は尊いものです。
しかし、結婚した以上、配偶者もまた一つの家族です。帰省という特殊な状況で、夫が「息子」になることは仕方ないとしても、せめて妻の孤独に気づき、寄り添う姿勢を見せるだけで、妻の心は救われます。たとえば、会話の輪に妻を誘い込む、さりげなく手伝う姿を見せる、あるいは二人きりの時に「疲れてない?」と声をかける。そうした小さな配慮が、妻を孤独から救い、再び夫婦というチームを築き直すための第一歩となるでしょう。
帰省という名の試練を乗り越え、夫婦の関係をより深く強固なものにするためには、夫が「息子」であると同時に「夫」であるという意識を保ち、妻の孤独を理解することが不可欠です。それは、まるで二つの役割を両立させるプロの役者のように、繊細で、しかし確固たる努力を必要とするものです。
ひとこと
今どきこんなの絶滅危惧種だと思いたいけどね。


