健全な「べき」と、手放すべき「べき」
私たちは日々、「〜すべき」という言葉に囲まれて生きています。朝は「早く起きるべき」、仕事では「効率を上げるべき」、家庭では「協力すべき」など、多くの「〜べき」が私たちの行動を律しています。
私はある自己啓発記事をきっかけに、「〜すべき」を手放すことの是非について深く考察しました。そして、すべての「〜べき」を同じように扱うことの危険性に気づきました。
私たちが本当に向き合うべきは、健全な「〜べき」と手放すべき「〜べき」をどう見分けるか、という点ではないでしょうか。
手放すべき「べき」:無用なイライラの正体
まず、手放すべき「べき」とは、他者や世界に対する、根拠の薄い、個人的な期待や要求です。これは、イライラの主な原因となります。
たとえば、以下のような「〜べき」が該当します。
• 「私の誕生日は、夫が盛大に祝ってくれるべきだ」
• 「上司は、私の努力をもっと評価すべきだ」
• 「世の中は、もっと公平であるべきだ」
これらの「〜べき」が厄介なのは、あなたの内面で完結している「理想」である点です。相手や世界は、あなたの期待を認識していないどころか、満たす義務もありません。
このような「〜べき」が満たされなかった時、あなたは「なぜ分かってくれないの?」と不満を感じます。しかし、それは「あなたのルール」が破られたからであって、相手は何も間違ったことをしているわけではないのです。
この種の「〜べき」を手放すことは、感情をコントロールし、不必要なイライラから自分を解放することにつながります。
健全な「べき」:共同生活の基盤
一方で、健全な「べき」とは、共同体や社会の秩序を維持するために必要な、多くの人が共有するべきルールや価値観です。これは、怒りやイライラの正当な根拠となり得ます。
• 「脱いだ靴下は洗濯カゴに入れるべきだ」
• 「部屋の通り道は開けておくべきだ」
• 「約束の時間は守るべきだ」
これらの「〜べき」が重要なのは、「個人的な好み」ではなく、「他者への配慮」や「共同生活の効率」に基づいているという点です。
例えば、通り道が塞がれていることで感じる苛立ちは、単なるわがままではありません。それは、「安全に、快適に生活したい」という健全な欲求が侵害されていることへの、真っ当な怒りです。
この種の「〜べき」を安易に手放すことは、自己犠牲につながります。その結果、「私が我慢すればいい」と不満を一人で抱え込み、最終的には関係性の破綻を招くリスクがあります。
二つの「べき」を見分けるための3つの問い
では、あなたの心に浮かんだ「〜すべき」が、どちらに分類されるのかを見分けるには、どうすれば良いでしょうか。以下の3つの問いを自身に投げかけてみてください。
1. その「べき」は、誰かを傷つけるか?
• 手放すべき「べき」:誰かを傷つける可能性がない。ただ、あなたの理想が満たされないだけ。(例:「結婚式は盛大に行うべき」)
• 健全な「べき」:その「べき」が守られないことで、あなたや他者が物理的・精神的に不利益を被る可能性がある。(例:「部屋を散らかすべきではない」→転倒の危険など)
2. その「べき」は、言葉にして伝えるのが難しいか?
• 手放すべき「べき」:言葉にすると「なぜそれを相手に求めるのか?」と聞かれて答えに窮する。(例:「私の気持ちを察して、もっと優しく接するべき」)
• 健全な「べき」:明確な理由を持って言葉にできる。(例:「通り道を片付けてほしい。なぜなら、転ぶと危ないから」)
3. その「べき」は、社会の一般的なルールに照らし合わせてどうか?
• 手放すべき「べき」:あくまで個人的な価値観であり、世間一般の常識とは異なる可能性が高い。(例:「休日は、必ず二人で過ごすべき」)
• 健全な「べき」:多くの人が「そうするべきだ」と考える、社会や共同生活のマナーや暗黙の了解に沿っている。(例:「使用後は元の場所に戻すべき」)
これらの問いを通して、あなたが抱える「〜べき」の正体が見えてくるはずです。
まとめ:賢く「べき」と付き合う
「イライラしないためには、すべての『べき』を手放すべきだ」というアドバイスは、あまりにも短絡的です。
大切なのは、手放すべき「べき」を見極めて自分を解放すること、そして健全な「べき」は勇気を持って言葉にし、相手と共有していくことです。
あなたのイライラは、無用な期待から来るものかもしれません。しかし、同時に、あなたの価値観が侵害されていることへの、大切なサインである場合もあります。
怒りという感情を安易に否定せず、その正体を見極め、健全な「べき」を適切に主張していくことが、ストレスを減らし、自分を尊重しながら生きていくための鍵となるでしょう。


