1. 職場で聞こえた、ある「独り言」
仕事終わりのロッカールーム。
「さあ、今日はどんなご馳走食べようかな〜」
そう聞こえたかと思うと、先輩が制服を脱ぎながら現れたのです。
別に誰かに話しかけるとでもなく、声の大きい独り言のようでした。
私はその時、「わあ、だからこの先輩はいつも元気で前向きな雰囲気をまとった人なんだ、すごいなあ」と、ハッとしました。
なぜなら、同じ「仕事が終わった瞬間」に、私が考えることは全く逆だからです。
仕事が終わった開放感や喜びはあるものの、その後の「あーご飯どうしよ」「考えるの面倒だな」と、次のやるべき事を考え、思考も行動も鈍くなってしまう。
その重い気持ちと、先輩の「どんなご馳走食べようかな」というワクワクする独り言の間に、とてつもない違いを感じたのです。
先輩が言っている「ご馳走」が、本当に高級な料理であるかどうか私は知り得ませんが、その時の私が受け取ったのは、「いつもの買い物、いつもの料理」それを敢えて「ご馳走」と表現することで、自分の中でポジティブに変換している。これは、まさに「力技のポジティブ変換」だ!ということでした。
たいていの人は、仕事が終わったあともなお、次のタスクがあります。
それは食事の用意だけとは限りません。子供のお迎え?満員電車に乗って帰る?気の進まない飲み会?まだやるべき家事が残ってる?
これらを全てポジティブにこなせる人は、なかなか居ないのではないでしょうか。
しかし先輩は、仕事終わりの「どんなご馳走を食べようかな〜」は、これらの続くタスクを軽やかに乗り越えていくヒントになるのではないか?と、私は考えました。
今日この記事では、この先輩のたった一つの独り言から学んだ、自分で自分をご機嫌にする習慣と、言葉の力による「義務感の消し方」について綴っていきます。
2. 心が「下がる人」と「上がる人」を分ける科学的戦略
下がる人の思考回路は「ネガティブな自動運転」
気分が下がる人の思考回路は、「仕事の解放感」というせっかくのポジティブな瞬間を、次の「タスク(義務)への抵抗」が瞬時に上書きしてしまうことで生まれると考えられます。
脳は、仕事終わりの「献立を考えるのが面倒だと感じる」といった過去の経験から、それまた起こると、自動的に予期します。(もちろんこれ自体は、自身を守るための脳の優れた機能です)
しかしこれにより、ネガティブな感情(「嫌だ、やりたくない」など)が生まれ、それが疲労感をさらに増幅させてしまうという、負のループに陥ってしまうのです。
上がる人の「力技」は、実は感情を上書きする科学的戦略
先輩の独り言は、単なる精神論ではありません。
それは、私たちの「心に起こる二つの感情は同時に存在しにくい」という性質を応用した、極めて有効なセルフ・トレーニングだと考えられるのです。
似た経験として、こんな例もあります。
我が家では犬を飼っているのですが、私がトイレに行くと、「中に入れてくれ」と外から扉をガリガリしてくるような、室内ストーカーの一面があります。
しかし、私が出かけるときに「行ってくるね」と声かけた時は、まるで「早く行け」と言わんばかりにワクワクした顔をしてきます。そして私が出かけるとともに、さっさとお気に入りのところに行って寝てしまうんだそうです。
それは私がいつも「行ってくるね」という声かけとともに、オヤツを与えてから出かけるからです。
不安というネガティブな感情が生まれる瞬間に、大好きなおやつによる「快感」という強いポジティブな感情がぶつけられ、不安が打ち消されます。そのうち、犬は不安を感じにくくなる。
先輩の独り言も、この犬のお留守番時のオヤツも、全く同じ仕組みなのです。
(※これは一つの例えです。特に犬の問題行動改善のトレーニングには専門的な知識が必要です。場合によっては悪化する場合もあるので、安易に真似することは控えてください。)
感情をポジティブに上書きする「拮抗作用」
人間も、強いネガティブな感情(義務への嫌悪)と強いポジティブな感情(ご褒美への期待)を、同じ瞬間に強く抱くことはできません。これは「拮抗条件づけ(Counter-conditioning)」と呼ばれる、古典的条件づけの応用原理です。
先輩は、ネガティブな感情が生まれる前に、「どんなご馳走食べようかな」という強いポジティブな言葉(報酬の予期)をぶつけています。このポジティブな言葉が、「面倒くさい」といった嫌悪感を打ち消します。
行動を能動的に促す「オペラント条件づけ」の原理
嫌悪感が打ち消された瞬間、脳に残るのは解放感とフリーなエネルギーです。つまり、そのエネルギーを次のタスクに使う余力がある、と言えるでしょう。
そしてここでまた、「どんなご馳走食べようかな」が次の行動を促す働きを持っているのです。この場合は、夕食の内容を考えたり支度をするというタスクを、ネガティブな気持ちになることなく、取り掛かっていけるのです。
一般的に「ご馳走」と言えば、「美味しいものを食べられる」と、私たちは解釈をしますよね。
「ご馳走」という言葉は、「美味しいもの」という報酬を約束する言葉なのです。そのために私たちは、その報酬を得るための行動(ここでは食事の支度など)に移ります。
これがオペラント条件づけの原理によるものと言えます。
ここで先輩の「ご馳走」という言葉は、行動を強化する信号としての価値を持っています。
こうして精神的な抵抗が消え、脳はこの後に控えるタスクを「嫌々やる義務」としてではなく、「自分で選んだ、ご褒美を得るためのプロセス」だと捉えるのです。
3. 義務を「ご馳走」に塗り替える言葉の力
この戦略が教えてくれるのは、「自分のご機嫌は、自分で取れる」ということです。言葉の力は、「感情を上書きする」と「行動を促進する」という二重の効果を生み出します。
ポジティブな人が次々と行動できる理由
実際、この手のポジティブな人は、今の行動の終わりごろには、無意識に次の報酬を用意しているのかもしれません。
一つ一つのタスクを「最高の褒美」と結びつけ、次の報酬を予約する。この「ポジティブの連鎖」こそが、彼らが次々とタスクをこなし、常に前向きな雰囲気をまとう秘密なのではないでしょうか。
4.今日からできる!「一瞬の感情」を捉える心の準備運動
理屈はわかったけれど、「そんなにポジティブな言葉を瞬時に出せるの?」と思いますよね…
でもこれは選ばれし者の才能ではなく、意識すれば誰でもできる心の筋力トレーニングと捉え直してみませんか。
と言っても、いきなり筋トレを始めるわけではありません。
まずは、一日の中で起こる「小さなポジティブな一瞬」を意識的に捉え、言葉でマーキング(印付け)をする準備運動から始めてみましょう。
ポイントは、感情が生まれるのを待つのではなく、「美味しい!」や「できた!」と、ポジティブな感情のピークを言葉で一瞬で捉えることです。
まずはそこから。自分を上げる言葉をたくさんインプットしていきましょう。
そのうちはあなたの脳は、それらの言葉を「ご馳走」と同じ、報酬の言葉として認識し始めます。
──恥ずかしかったら、まずは心の中ででも…。自分の心のポジティブな一瞬を切り取る練習になります。
あなたの言葉は、あなたの脳をポジティブにする魔法の言葉に仕立てることができます。
その自分の言葉で、日常の「義務」を「ご馳走」に塗り替え、前向きな自動運転にしていきましょう。
参考
拮抗作用について
ウォルピ, J. (Wolpe, J.) (1958). Psychotherapy by reciprocal inhibition. Stanford University Press.
ウォルピ, J. の提唱した相互抑制(Reciprocal Inhibition)の原理に基づき、不安などのネガティブな感情とリラックスなどのポジティブな感情は同時に強く存在し得ず、互いに打ち消し合うという考え方。この原理は、恐怖症治療の技法である系統的脱感作法の理論的基盤となった。
古典的条件づけとオペラント条件づけについて

あとがきと関連記事
「ポジティブな言葉を口にするだけでも脳を騙して、前向きになれる!」と、以前どこかで聞いたことがあります。そのカラクリはこういうことだったのかも?と、今回の記事を書きながら私なりに納得をしてしまいました。
しかし、前回と今回と続けて考察を続け、もっと大事なことは、そこで使われる「ポジティブ」な言葉とは、自分にとってポジティブな価値を持った言葉でなくてはならないこと。
そして、その価値は自分自身で意識して作り出せる、ということでした。
日々のちょっとした心がけで、前向きになる動機を作っていけるとしたら、とても素敵だなと、私は思いました。
さらに、しかし、前に進むための「アクセル」を手に入れたら、次に考えるべきは安全に止まるための「ブレーキ」ではないでしょうか?という考察




