伴走の先にある沈没の予感
以前、私はこのブログで「伴走者としての親の孤独」について綴りました。
子供の歩幅に合わせ、暗闇の中で共に走り続ける。それは親として誠実な形の一つだと思います。
しかし、子供が大人への入り口に立ち、知性と言語能力を磨いていく中で、伴走が長引くことで新たなフェーズが訪れる可能性が出てきます。
それは、伴走という名の共依存への誘いです。
最近、私は強く感じていることがあります。それは、子供の苦しみや矛盾を理解できるからといって、それを肯定し、受け入れることは別物だということです。むしろ、理解しているからこそ、手を貸してはいけない瞬間があるのではないか?と。
搾取される『感情ワーク』という名の労働
人間関係において、積み重ねてきたはずの信頼や感謝が、一瞬の感情の爆発によって無に帰してしまうことがあります。
どれほど手厚い献身や物理的な支えを投じても、雑談で穏やかに談笑する時間が流れていても、相手が自身の理想と現実の乖離を前に語り始める時。一度対応を間違えてしまうと、それらの事実は瞬時に背景へと退けられます。
彼らの脳内では、過去の恩恵は当然の権利として処理され、今この瞬間の不快感だけが世界のすべてとして拡大されていきます。あんなに尽くしたのに、という因果関係はそこには存在しません。ただ、今この瞬間に私を満足させない相手が悪い、という極めて一面的で、本人にとって都合の良い論理だけが最速のスピードで組み上げられていく。
社会学者アーリー・R・ホックシールドは、職業上の感情管理を「感情労働」と呼び、家庭など私的な関係の中で無償に引き受けられる同様の働きを「感情ワーク」と区別しています。
自らの不満を抑制し、相手の不満を処理しようと努力するこの役割が、当然のように消費される関係性は、向き合う側の心を静かに削っていきます。そこには理不尽の言葉すら、浮かび上がってきます。
※感情労働についてはこちら
認知の書き換えを迫る支配の構図
対立の果てに突きつけられる「〜と認めろ」という謝罪要求の圧は、単なる感情の衝突ではありません。
それは、こちらが持っている客観的な視点や判断基準を捨てさせ、彼ら自身に都合の良い物語に書き換えさせようとする、認知の侵略ではないかと、私は思います。
なぜならそこには、ある種の支配的な心理構造が見え隠れするからです。自分の抱える不全感や責任を相手のせいにすり替えることで、自尊心を保とうとする。
家族関係学を紐解けば、親というものは、自立を促す「訓練」と、弱さを支える「介助」という、矛盾した二重の役割を背負わされています。土屋葉氏は、こうしたケアの役割が「愛情」という規範と結びつけられることで、さらなる困難が生じることを指摘しています。家族であれば「~してくれるはず」という、他人同士では起こり得ない不当な要求が愛情の名の下に正当化されてしまう。
こうした背景の中で、相手はその「介助」の側面を執拗に要求し、親を「私の期待を裏切った悪役」に仕立て上げることが出来る。
そうして自分を被害者の位置に置き、相手を糾弾することで自尊心を保とうとする全能感。それに対し、安易な共感を示すことは、相手の停滞に加担し、共に沈んでいくことを意味します。
侵されたくないという生存本能
アイケンバウムとオーバックは、情緒的な世話役を引き受けすぎた者が抱く満たされない想いを「内なる少女(情緒的欠乏感)」と名付け、主に母娘の関係性において論じました。
しかし、これは性別に関わらず、一方的にケアを担わされてきた者が抱える普遍的な心理構造であるとも言えないでしょうか。
自分の中に欠乏感を抱えたまま、目の前の相手と自分自身を無意識に重ね合わせてしまう(同一化)。その瞬間に境界線は溶け、相手の痛みは自分自身の古傷のように感じられ、冷静な判断を失わせます。そしてその境界線が消えた場所を、相手は「自分の不快な現実をすべて処理してくれる理想の存在」を求める全能感で突き抜けてくるのです。
目の前の日常的な責任から逃げ出し、それを指摘する他者を攻撃することでしか自分を保てない。その脆弱さを全肯定することは、相手の全能感という物語の共犯者になり、自律を妨げる最大の障壁になります。
自分の人生を、独り立ちさせる
かつて自分も通った道だからこそ、その不毛さはよく分かります。けれど、それを解決できるのは本人しかいません。他者の認知を歪めることで得られる平穏は、砂上の楼閣に過ぎないのです。
私はもう、彼らの物語の共犯者になることを拒否します。
理解はする。しかし、肯定はしない。
親という役割を一度横に置き、一人の自律した大人として、不当な要求には沈黙で答える。その冷徹な境界線こそが、自分自身の平穏を守り、同時に相手を、他者の存在する現実の世界へ送り出すための、最後の手向けになると信じています。
参考文献
- 土屋 葉 編(2003)『家族関係学』武蔵野大学通信教育部.
本記事における「訓練と介助の二重の役割」「内なる少女(情緒的欠乏感)」「感情ワーク」といった概念は、上記テキスト内の土屋葉氏(第9章)および守如子氏(第7章)らの記述に基づき、筆者の経験を交えて考察したものです。



