はじめに
夫の親孝行の裏で、妻が感じていたこと。
実体験に基づく創作です。
家族風呂のトラウマ
家族旅行は、何回行っただろうか。
義理の両親と夫と子どもと行った家族旅行。片手で数えるほどだったけれど、私たち夫婦と子どもだけで行った旅行はゼロだったから、あれはこの家族にとっての「家族旅行」であった。
いくつかのエピソードは覚えている。
その中でも、特に印象に残っている出来事がある。
善意が鈍器になった瞬間
それは、義母が私たち夫婦と子ども水入らずで、ゆっくりと温泉を楽しめるようにと、家族風呂を予約してくれた時のこと。
義母のその心遣いが、私にはただただありがたかった。久しぶりに心から安らいで、熱いお湯に浸かっていた。
その時だった。先に湯船から出た夫が、こう言った。
「お前、早くしろよ。母さんたちが入れないだろ!自分のことしか考えてないヤツだな!」
自分の家族より親なのか
自分の耳を疑った。
湯気で霞んだ浴室で、私はただぼんやりと、今聞こえた言葉を反芻した。
子どもははしゃいで、足でお湯をバシャバシャさせていた。せっかくなのでもう少し楽しませてあげたかったな。
リラックスしていた気持ちが強張っていく。
夫にとっては、目の前で我が子が楽しむ姿より、親が温泉を楽しむことの方が優先されるんだな。
そもそも、義母が私たち親子のためにと気を遣ってくれたその気持ちを、この人は本当に理解しているのだろうか。
彼の親を思う気持ちは、きっと素晴らしいものなのだろう。
その気持ちは疑わない。彼は親孝行で、家族思いの、きっと優しい息子だ。
ただ、その「家族」の中に、私は入っていないのだろう。
私は静かに納得した。
夫の言葉と、その言葉に込められた無意識の排除。それが、私がこの家族の中で長年感じていた違和感の、象徴的な出来事だった。
何も気付いてない人たち
それから、数年が経った。また義父母と温泉へ行くことになった。
その日も、義母は私たち夫婦と子どもが水入らずで楽しめるようにと、家族風呂を予約してくれた。
「私は大浴場へ行くから、ゆっくりしてね」
まるでいつかの埋め合わせをするように、義母は私に声をかけてくれた。
私はただ「ありがとうございます」とだけ答えた。
あの時と同じ、優しい心遣い。本来なら、心からありがたいと思わなければならないのに、私の心はーー
何度も何度も。
このお義母さんは。
繰り返さないで欲しい、善意からの公開処刑を。
本当に欲しい心遣いは、夫からのそれだ。
「入らないの?」
夫が私にそう声をかけたけれど、私はただ首を横に振った。
「…大丈夫。今日はいいや」
そう言って、私は温泉に入らなかった。
だって、どうせまた、急かされる。
親の心子知らず。
「お前、早くしろよ。母さん達が入れないだろ!」
あの時、夫が発した言葉は、月日が経っても色褪せない。
おわりに
もう、記憶から消されかけているエピソードだが、この家族に対する絶望の階段を上がったことは、しっかり記憶している。
私はこの時の気持ちは自分の中にしまったままで、「蒸し返す」ことはしないけれど、かと言って「もう過ぎたこと」でもない。
「そんなの、いつの話だよ。終わったことだろ。」
きっと、夫は言う。
だって、気にも止めてない、覚えてもない話だろうから。
でも、終わってなんかない。
その後ずっと私は、あなたの言動をジャッジし続けてきた。
ある意味、蒸し返すより悪質かもね…..🤡


